御殿場JCT、記憶の三叉路

6月生まれの私にとって、25回目の夏。私は3月に購入した愛車を、ひたすら西へ走らせていた。目的地は関西の親戚家。新幹線や飛行機で帰るのも悪くなかったが、現地で動き回るのに車が必要ということで、6時間かけて車での帰省を決めた。

東名高速道路を西へ走っていると、1つの情景が頭に浮かんできた。それは14年前、父の運転する車の後部座席から見た、無限に続いているように感じたあの道路の景色だった。

我が家では、盆休みと正月に関西へ帰省するのが毎年の恒例行事だった。金曜日の夕方、父の会社まで母の運転で向かい、兄貴と私は後部座席で、年に2回の帰省という行事に心を躍らせていたのを今でも覚えている。あの頃の私にとって、親戚家への帰省は日常の中にある唯一の非日常であり、普段決して見れない景色や味わえない感情を経験できる、これ以上ない貴重体験だったのだ。

私は今でも、この非日常というものに心を踊らされる。東京というコンクリートジャングルでの生活しか知らない私にとっては、多くの人にとっての「当たり前」がほとんど非日常になる。親戚家から見える中山連山の風景、近くを走る阪急電車の踏切の音、駅に漂う「くくる」のたこ焼きの匂いにいちいち感動していたように、旅先で見る様々な「普段の生活にない情景」を見ては人知れず感動を覚えている。

 

大和トンネルという魔境を足掛かりにいきなり40分も渋滞にハマり、早くも心身共に削られ始めていることを実感した私の視界に飛び込んできたのは、「御殿場ジャンクション」「新東名高速道路」の文字であった。

14年前は存在していなかった、深々とした緑色の看板と真っ白な橋桁。兵庫への道のりを30分以上も縮めてくれるその新たな文明の産物をあえて避け、私は何十年も踏み固められた「東名高速道路」を進むことを選択した。それは、あの時と同じ道を進むことで「過去の追体験をしたい」という理由からだった。

 

まだ車の屋根にも届かない背丈だったあの頃に、父親の運転で何度も通ったこの道。これを自分の運転で走ることで、あの頃の記憶に浸りたいと思った。そして、自分が成長したという証を自分の目で、体で、五感全てで実感したいと思った。

インターチェンジを一つ越える度、様々な記憶が呼び起こされた。海が見たいと思い、「トイレに行きたい」とウソをついて寄ってもらった由比PA。あの頃は太平洋よりも広く感じた、SAから見る浜名湖の景色。「ここは踊る大捜査線の映画で使われたんだよ」と、母親に毎年言い聞かされながら通った京滋バイパス。もうすぐ祖母家に着くことを感じさせてくれる、中国道から見える太陽の塔。そういった、500㎞続く道路に落ちている思い出の欠片を拾い集めながら、私は臙脂色の鉄塊を西へと走らせ続けた。網膜を超えて、何十年もかけて蓄積された様々な記憶が脳裏に呼び覚まされていく。そして、「大人になった自分」がこれらの風景を見ているという事実に、大きな感動を覚えていた。頼もしい手さばきでハンドルを操る父親の姿を思い出しつつ、目いっぱいアクセルに力を込める私はあの時、「立派な大人」であった。14年前も混み続けていた大和トンネルで出先をくじかれ、とてつもないゲリラ豪雨の中で「ハイドロプレーニング現象」とは何だったかを脳内で反芻しながら小牧を抜け、名神では2度も事故渋滞に巻き込まれ、結局私の東京-兵庫の初運転は7時間半もの長旅となった。まだまだ父親には敵わないな、と実感した私は、子供だったであろうか。

 

人が「大人になった」という自覚を持つのは、どんな時だろうか。身長が両親に追いついた時か。高校を卒業し、制服という拘束具を脱ぎ捨てた時か。20歳になって、酒や煙草といった「生活の自由」を手にし、アルバイトや仕事で稼いだ「自分のお金」を「自分の好きに」使えるという「金銭的な自由」を手にした時か。社会人になって、人間として自立したことを実感した時か。

タイミングは勿論、人それぞれである。私の場合は、やはり「過去の追体験」というものが大きなカギになった。

 

私が20歳になった直後の夏、親戚家に家族で帰省した。帰省自体は4年ぶりだったが、昔あんなに広々と感じていた親戚家が異様に狭く感じた。家族4人で布団を敷いて寝れた客間も、3人で精一杯だった。足を悠々伸ばして入っていた風呂も、膝を折り曲げないと入れなくなっていた。16歳の時に気付かなかったことにここで気付いたのは、やはり20歳になったことによる「潜在的な大人の自覚」というものによるだろう。

2007年、煙草を吸う大人達の傍らで手持ち花火にウキウキしながら火をつけていた10歳の夏。2017年、煙草に火をつけて、花火で遊ぶ従姪を見守る20歳の夏。視点こそ違えど、同じ記憶同士の結び付きであった。このように過去の記憶を追体験することこそ、身長が30センチ伸びたことよりも、自分の足でどこまでも行けるようになったことよりも、何よりも自分が大人になったことを実感させてくれるのだった。

こういった記憶の追体験というものは、誰しもが経験のあることだろう。そして、その度に自らの成長を実感する。マイカーの納車後、初めて走った道が246号線だった。ここは、5年ほど前まだ初心者マークを背負っていた時に何度も走り、運転の礎を築いた思い出の道であった。あの時は不規則に流れ行く人々の意思に怯えながらハンドルを握っていたのが、今では車線変更でも何でも簡単にできてしまう。立派な、大きな成長であると感じた。

 

過去を振り返ってみて、またあそこに行ってみたいな、あれをやってみたいなと思うことは多々ある。自転車で300キロ走ったり、原付で1000キロ走ったりともう到底できそうにないこともあるが、また同じ風景を見に行って、あの頃の自分とはまた違う思いを持った自分というものを重ねてみたい。追体験とは、ただ思い出を振り返るだけでなく、昔の自分を現在に投影させることでもある。自分がどれだけ変わったか。改めてどんなことを思い返し、今何を思うか。自分の現在地はどこなのかといったことを知るきっかけとなるであろう。

そして、このように追体験して特別な感情を持てる「記憶」というものをこれから増やしていけるかどうか、私の行動次第である。この目で、この足で、様々な風景を見に行って、良くも悪くも沢山の記憶を蓄積していきたい。たとえ悪くても、追体験した日には「あんなこともあったな」と笑える日がきっと来るはずだから。追体験こそ、私をまた成長させる大きなカギとなるのだから。

今の私は、これまでの自分が持ち得なかったステータスを多々持っている。そして、これからも様々なステータスを増やしていける。これらを踏まえて、今までの人生にどんな感想を持つことができるだろうか。はたまた何年後かに、今の自分を振り返る日も来る。今抱いている様々な感情に、未来の自分はどんな思いを抱くであろうか。計13時間、走行距離1200キロという24歳の夏を振り返り、「東京-兵庫の運転でヒイヒイ言ってた時もあったなぁ」と笑える日が来れば、これ幸いである。

社会人2年目、奴隷1年目

 

内線表にある私の名前から(新)という文字が消え、新たに見慣れない名前の横に(新)という文字が現れたことで、私は社会人2年目になったことを自覚した。

私が3月まで1年目として所属した部署は事業部編成によって消滅し、私は新たな部署に異動することとなった。同じ会社であるが、扱うモノも仕事のやり方も、もちろん客先も1年目とは全く違う。こうして、2回目の社会人1年目のような気分で私の社会人2年目はスタートした。それと同時に、私の奴隷生活1年目もスタートした。

 

結論から言おう。私は今の部署で、奴隷のような役割を見事に果たしている。やっている仕事は、仕事と言うにも似付かわしい雑用ばかりである。内容としては、1年目の4月にやるようなことばかり。これを2年目の5月にやっているというのが、未だに信じ難い。ダンボールに物を詰めすぎて、そろそろダンボール側から拒否されてもおかしくない。この1か月余りで、これまで使用してきたガムテープの量と同じ量を使った気がする。

これまで私がブログを書くときは「いい文章だなぁ」などと思われたいがために、着飾った文章を書くのが恒例だった。しかし、今日のブログは違う。ゴミ箱に向かって叫び倒したい言葉たちを、キーボードに書き殴っていく。Twitterの140文字で表現しようとすると「ウザい、しんどい、クソが!」で完結してしまうような内容だが、この場を借りて日頃の鬱憤を晴らさせて欲しい。

 

以前ブログで書いた、「過去の有能だった自分」と「現在の無能な自分」とのギャップで苦しんでいたあの時期に、こうなることなんて予想もしていなかった。

あれから私は自分なりに色々と頑張り、何とか様々な仕事をこなせるようになっていた。今思えば、あの頃は本当に幸せな生活だった。分かりにくく野球で例えると、一軍のベンチに座らせてもらっているような感覚だった。実践の現場を肌で感じさせてもらい、時折試合に出してもらえることもあった。そういった実戦経験の中で様々な成功、失敗を重ね、今の自分に足りないもの、今後できるようになりたいこと、継続していきたいことなどをその都度見つめ直し、実力をつけるための糧にしていた。こうして少しずつ仕事の範囲が広がってきた中で、2年目になったらこういうことも自分でしてみたい、これをできるようになりたいといった様々な目標や自信が芽生えてきた。そんな矢先での部署移動だったのだ。

そして、2年目を迎えた今の私を再度分かりにくく野球で例えると、「ベンチ裏で選手のドリンクを作る補欠くん」である。当然試合には参加させてもらえない。ひたすら先輩たちのためにドリンクを作り、遠い所から先輩たちが実践の場にいるところを見ているだけ。1年目の終わりに「2年目ではこんなことやりたい!」と思っていた目標は、いつの間にか毎日の雑用に紛れ、ダンボールに入れて佐川急便で出荷してしまっていたようだ。やりたかったことなど一つもできず、ただただしょうもない雑用を繰り返すのみの日々である。

 

ここまで聞くと、2年目なんてまだまだペーペーなんだから雑用なんて当たり前だろうという声が四方八方から浴びせられることだろう。仰る通りである。私の中では、雑用なんて1年目でも2年目でも5年目でも10年目でもやるべきことだ。私の中で納得いかないのは、1年目で良い経験がたくさんできた中で2年目にこんな雑用まみれの日々に逆戻りしていること。自分がすべき範囲の仕事の雑用ならまだしも、全く関係ない仕事の雑用までさせられること。それらの雑用を押し付ける先輩たちが、「私の成長のため」という理由でそれを正当化していること。

 

何度思い返しても、1年目は本当に良かった。毎日違った内容の、様々なパターンの仕事に取り組めていた。先輩の一挙一動を近くで見ながら、自分だったらどうすればいいのか、今の自分が学ぶべきこと、真似すべきことは何かを常に考え、頭をフル回転させながら毎日を過ごしていた。ずっと悩んでいた「仕事が難しい」というのも、今思えばあれだけしっかりとした内容の仕事を頭を使いながら取り組んでいた訳で、それは当然難しいものだったなと思える。

そこから自分がどうステップアップしていこうか、期待と経験値に基づく自信で胸を躍らせていた私に待ち受けていたのが、頭を一切使わない雑用の嵐だったのだ。チンパンジーでも数日間訓練を受けたらあっという間にできるようになるような、"質"の低い仕事だ。量も多いから毎日遅くまで雑用に追われ、窓に映る自分がかなり指先の器用なチンパンジーに見えてくる。奴隷らしく足に鉄球を付けられているような感覚にも襲われるため、帰宅時はどうも足が重い。そんな時、毎回のように「俺は何をしているんだ」という悲壮感に襲われる。同じく2年目を迎えた周りの同期は既に自分の足で歩き回っているというのに、私は未だにハイハイをしている。そんな現状に焦りを覚えるとともに、歩くきっかけすら与えてもらえていない状況に絶望感を覚えている。1年目と比べた時の遥かな"質"の物足りなさ、自身で立てた目標と現状の大きな乖離、周りの同期との"差"。この3つが、雑用の嵐に飲み込まれてもがき苦しんでいる自分に更なる絶望を与えている。

 

そして、雑用の範囲というものも私にとって大きな問題だ。私は今、同じ部署3人の先輩の雑用をしている。1人は私が付いて仕事をする先輩だが、他2人と一緒に仕事をすることは殆どない。それなのに、その2人の雑用も私がしているのが現状だ。むしろ、その2人の雑用は私が付く先輩の雑用の4倍ほどの量だ。異動初日のミーティングで私に「仕事は自分の成長のためにやって欲しい」と偉そうに語っていた先輩が私に数多の雑用を押し付けてくる度、5秒だけ時を戻す力が欲しくなる。もしそんな力が私にあれば、その先輩を「偉そうに語りやがって!」とグーで殴り、すぐに時を戻すだろう。

毎回思う。「自分の仕事くらい自分でやれ」ということを。面倒くさい所だけを人に押し付けて大事なところだけ自分でやる。ある意味社会の摂理なのかもしれないが、押し付けられる側はたまったもんじゃない。自分がすべき仕事の雑用だったら喜んで、何でもやる。それは自分のためであり、やらないといけないことだから。ただ、現在の関係のない先輩の雑用は、本当にやる意味がない。ただ都合がいいように利用されているだけである。2年目の私が部署に異動してきたことは、先輩たちにとっては「使い勝手のいい奴隷が来てくれた」と喜ぶようなことだっただろう。

そして何より納得できないのが、それらの雑用を「私の成長のため」と正当化して押し付けてくることである。いくらダンボールに物を詰めて発送しても、私がなれるのは優秀な営業マンではなく、お片付けマイスターか何かである。それを「私の成長のため」という「面倒くさい」の隠語で押し付けてくるのが本当に腹立たしい。「面倒くさいからこれくらいお前がやっておいて」と言われた方がまだマシかもしれない。いや、恐らく本当にそれを言われたらグーで眉間を行ってしまうだろう。1年目の時の先輩は、私の成長のためにと実践の場でバットを振らせてくれた。いくら空振りしても、アウトになっても、それを糧にしろとまた新たにチャンスをくれて、それによって私は経験値という大きなものを得ることができた。今は経験値どころか、ガムテープをいかにキレイに切るかということしか考えられていない。こんな現状、本当にウンザリなのである。

 

2年目になって初めて、「仕事がつまらない」と思うようになった。社会人になった際の信念として、「仕事がつらい、大変というのは覚悟の上だからどれだけ大変でもめげない。ただ、仕事がつまらないと感じるようになってしまった時はスッパリと辞めたい」と思っていた。しかし、今もうその状態に陥っている。質の低い仕事と言っていいのか分からない作業を、ただただ長い時間続けるだけの"作業"。さすがにこの状態で辞めるということはしないが、このままこれが続いたら私が3年目を迎えることは無いかもしれない。

私自身、自分で言うのもおかしいが仕事に対してはかなりモチベーションを高く持っている。1年目は内容こそ充実していたものの量がそこまで多くなかったので、もっと遅くまで、沢山仕事をしたいと思っていた。本当である。働き方改革が進む世間において残業ウェルカムの思想を持つ、現代社会のチェ・ゲバラである。嘘である。

そのため、雑用ばかりさせられてメインの仕事はロクに触らせてもらえない中、自分なりに1年目の経験を生かしてメインの仕事に手を出してみてはいる。実際に何度かやり、きちんと仕事をできたものの、先輩からは「それは営業の仕事じゃない」だの「俺がやるからいい」だの言われる。自分がやっていないから私がやったのに、いざ手を出されたらそんなことを言うなんて、どうかしていると思う。これが、私が奴隷である所以である。やっていいのは雑用だけ。さっさとこんな状況を抜け出したいので、やらなくていいと言われながらも自分にやれることは勝手にやっている。これで何かが変わるなら、と。これを繰り返す中で、じゃあもうやったらいいよと先輩が折れてくれるのを待つしかない。仕事がやりたいのにやらせてもらえないというのが、ここまで辛いと思わなかった。

 

ここまでツラツラと心情を吐露したが、まぁ簡単に辞めようとは思わない。せっかく入れた業界であり、1年目は仕事が楽しかった訳で。また仕事が楽しいと思えるようになる日まで、雑用の嵐を耐え抜き、自分なりに努力するしかない。帰宅時間はかなり遅くなったが、極力自炊を頑張る生活も続けている。1年目の後輩に挨拶されたときに、どう返せばイキった先輩と見られずに済むかという疑問の答えは、未だに模索中だ。今年の新卒、全然挨拶しないんですけどね。とにかく、2年目は1年目よりもっと成長できるよう、こんな状況下でもきちんと頑張ろうと思う。

とりあえず、上司や取引先の人にゴルフに誘われているときの上手い断り方、誰か教えてください。

平成25年の500円硬貨

 

よく行く取引先で商談中に出されるコーヒーがマズすぎる。

 

味が、というよりは、臭いが受け付けない。私の絶対にNGな食べ物の1つである、納豆の臭いがするのだ。マスク越しに鼻を刺してくるその臭いを嗅ぐ度、自分がコロナウイルスによる嗅覚障害を患っていないことを知ることができる。

納豆を遠ざけ始めたのは、物心がついた頃からだった。それからというものの、私は納豆を常に、意図的に避け続けてきた。この23年間、私の人生における選択肢に「納豆」の2文字は無かった。

 

もし納豆を食べられたら、私の人生は変わっていたのだろうか。この「もし」の答えは、間違いなくNOであろう。納豆を食べられることで入る学校や会社が変わることは無いし、出会う人が変わることなどあり得ない。人生にもたらす影響など、食事シーンの1コマのみである。

かまいたちの好きな漫才で、M-1グランプリでも披露した「タイムマシンがあったら過去に戻ってポイントカードを作る」というものがある。ポイントカードを作るように過去を改変したところで、現在に及ぼされる大した影響は無い。言わば、人生においてある意味"どうでもいい選択"である。同様に、私の「嫌いだから何としても納豆を食べません」ということも、ある意味"どうでもいい決断"である。

ただ、かく人生における選択肢は、こういったどうでもいいものばかりではない。時には生活を左右する、人生を左右する選択や決断を迫られることもある。「選択と決断」は、その時その時で大事さや難しさが大きく違う、天邪鬼なものだ。

 

この「選択と決断」という言葉に、私は昔から特別な興味をそそられる。

誰しもが何度も目にし、耳にし、これが人生の中でどれほど大事か、言われずとも分かっている言葉だ。人生というものは、この繰り返しと積み重ねによって構築されている。どんな生き方をしている人でも、必ずこの2つの行動に頭を悩ませる瞬間がある。

この動作は日々の習慣といったものよりも、もっと密接に我々の生活に紐づいている。もはや当たり前すぎて、これをいちいち気にしている人などあまりいないであろう。

ただ、私は昔からこの「選択と決断」というものに惹かれてしまう。自らの「選択と決断」がどうであるかといったことを、前々からよく考えるようになっていた。先日実家で久々に見返した、中学校の卒業文集に私が書いたテーマも、この「選択と決断」であった。

 

私はよく、後悔をする。行く場所、入る集団といった大事な選択肢を間違えたと気付いた時。自分の行動が原因で人間関係が崩れてしまった時。なんでこれ買ったんやろ、と思った時。あの店に行っておけばよかったと思った時。そして、あの時こうしておけばよかったと思った時。

誰でも経験する後悔であろう。日常に何個も、当たり前のように潜むモノから、自分の生活をも変え得る大事なモノまで。そういった後悔の後、決まって考えるのが「では何が正解だったのか」ということだ。

 

2つの選択肢を外した場合、その時の正解は「選ばなかった一方」ということになる。しかし、かく人生において選択肢がたったの2つしかないという局面は、限りなく少ない。と言うのも、その時は2つだけに思えても、後々振り返ると実は何個も選択肢があったことに気付くといったことである。

例えば、「マクドナルドでビックマックを食べておなかを壊した」とする。ちなみに実話だが、その後私はバイトで大事な業務があり、ここでおなかを壊したことが仕事に響き、後悔することとなった。その時は、「マクドナルドでなく隣の松屋に行けばよかった」という2択目を正解だと考えたが、よくよく考えると「ビックマックではない他のメニューを食べる」という3択目以降もそこには存在したのだ。

そして、この「選択と決断」というものの難しい所が、「この2択目以降が正解だったかどうか分からない」ということである。

 

この場合、私にとっての正解は「松屋に行く」という2択目か、「別のメニューを食べる」という3択目、そして無限に考えられる4択目以降である。

しかし、もしかしたら2択目、3択目を選んでも、同じようにおなかを壊していた可能性があるのだ。「松屋でもない別の店に行く」という4択目を選んだら、行きしなで交通事故に遭っていた可能性だってある。このように、「もし~をしていたら」という無数の"If"のどれが最適解だったかどうか分からないというのが、「選択と決断」という、普段何も考えずにこなしている行動の難しさなのだ。

親戚から聞いた面白い話がある。ある大学生が通学途中、最寄り駅で突然見知らぬお婆さんにしつこく話しかけられたそうだ。彼女は急いでおり、最初は無視していたが「行かないで」と強く腕を引かれたことに妙な胸騒ぎを覚え、思わず立ち止まってしまった。するとそのお婆さんは「行かないで」と腕を強く掴みながら言うだけで、特に何も無さそうだった。結局そのまま急いで立ち去ったが、いつも乗る電車を逃してしまうこととなった。別の路線で大学に向かったものの、遅刻。まだ新学期で大事な授業である上に厳しい先生だったため、彼女は遅刻を激しく叱責されてしまった。その時、彼女は「あのお婆さんを無視して電車に乗ればよかった」と後悔したらしい。

しかし、後で聞くと彼女が乗る予定だった電車は、彼女が駅でお婆さんに声を掛けられてわずか10分後、平成最大級の脱線事故に巻き込まれてしまっていたのだ。かの有名な、「JR福知山線脱線事故」である。前方車両に乗ることが多かった彼女は、もしいつも通りにその電車に乗っていたら、果たしてどうなっていたか分からない。

これが、"無数のIf"というものの奥深さである。「遅刻して怒られる」ということは一般的に「不正解の選択」であるが、この場合は2択目が「お婆さんを無視して電車に乗る」であった。この2択目が事故に巻き込まれてしまうという結末だったことを考えると、この1択目は不正解どころか「助けられたという大正解」だったと考えられる。「もし電車に予定通り乗っていたら、事故に巻き込まれていた」「もし寝坊して電車に乗れなかったら、事故に巻き込まれなかった」といった"無数のIf"というものは、考え出したらキリがない。そこが奥深いのである。

私はかれこれ17年ほど野球をやっている。「野球を始める」という選択をした時のことなど、一切覚えていないが、途中で「野球を続けるか否か」の選択を迫られたことは何度もあった。高校野球を始める前。高校野球を引退した後。社会人になった後。その度、悩みながらも「続ける」という選択を私はしてきた。今は楽しくやれているので、この選択は「正解だった」と思えるが、これが20年後、30年後にどうなっているかは分からない。もしかしたら、2年後に野球で大怪我をするかもしれない。10年後、今痛めている右肩が爆発し、一生右腕が思うように使えない体になってしまうかもしれない。そうなった時、今は正解だと思っている「野球を続ける」という選択が、不正解だったと思ってしまうであろう。

 

そうした中での私の結論は、「全ての"選択と決断"の正解不正解は、死んでからじゃないと分からない」ということである。

 

人生に後悔はつきものである。日々様々なことを後悔し、その度に過去を振り返る。しかし、私はいつからか「こうしておけばよかった」という考えを無くすようになっていた。と言うのも、「こうしておけば」の後に待つ未来は想像こそできても、断定はしようがないということに気付いたからである。最適解であるように思えるその選択肢も、先述のように現在よりも悪い未来が待ち受けているかもしれないからだ。

先日最終回を終えた「知ってるワイフ」というドラマが、まさにこのような内容であった。主人公がずっと後悔している過去の選択を、タイムスリップによってやり直すことができる。タイムスリップに必要なのは、戻りたい年の書かれた500円硬貨1枚。しかし、過去の選択を変えたことで主人公にとって理想の現在を生み出したはずが、その現在は理想の相手との離婚、仕事をクビになるといった形で、改変する前の現在よりも更に悪いものになってしまったという話である。

私が後悔する過去の選択も、もしかするとこのように今よりも悪い結果を生んでいたかもしれない。私が理想だと思っている"If"は、今を最悪な状況へと導く引き金になり得ていたかもしれない。

それならいっそ、間違った選択をしてしまっても「それによって導かれるルートがいずれ私にとっての最適解になる」と信じて前を向いた方が、過去を引きずらない分自分にとっても楽である。

 

もし私に、白蘭のようにパラレルワールドを覗ける力があるならば、もちろん考え得る様々な"If"の先を見てみたい。野球でなく、父の当初の望み通りにアメフトをやっていた現在。父親の転勤について行くことを全力で拒み、思春期をずっと地元で過ごした現在。小学生からの夢を必死に追いかけ、その仕事に就くことができた現在。それぞれ、今とは出会う人も大きく異なり、取り巻く環境も変わり、自らの人間性すらも今とは異なっている可能性がある。一体、どの人生が自分にとって一番幸せだったのか。そんなことは「神のみぞ知る」である。

 

だからこそ、人生における大きな決断においては"思い切り"というものを大切にしたいと思うようになった。

私は最近、最近車を購入した。この選択は一見何でもない選択に見えるが、私の5年後のお財布事情やこれからの行動範囲をも左右する重要な決断であった。いろいろと悩むところはあったが、最後は「この選択が自分の人生をよくしてくれる」という自信を胸に、決断するにあたった。その通りになる保証は一切なく、リスクも高い決断であったが、何事も良い結果というものは楽をして得られるものではない。時にはリスクを冒して、良い結果を生み出すためのきっかけ作りをすることも必要である。今回の車を購入するという決断は、すぐに良い結果を生み出すきっかけになるとは考え難いが、いつか私の重要な選択肢においてこれが大きなきっかけとなり、良い結果へと結びつけるカギになってくれると信じている。

 

選択肢が多いほうが、人生は楽しい。選択肢の数だけ、選ばなかった"If"のその先を想像できる。その想像のIfの先には様々な自分がいて、様々な人生を歩んでいる。大切なのは、そのIfの先にいる自分を羨むことではなく、その想像の自分に現実の自分をどう近付けていくかである。

誰しもが、理想の自分になるチャンスをいくつも持っている。そのために必要なのは過去の選択を悔やみ続けて「なれるはずだった理想という名の幻影」を追うことではなく、これから自分が何をできるか考え、理想の自分というものの可能性を探ることである。

 

大変な思い、痛みを繰り返しながら17年も野球を続けてきたこと。数多の選択肢があった中で、あのバイト先を選んだこと。様々な出会い、別れ、自滅を繰り返しながら、結果として今の人間関係が形成されたこと。就活でいろいろなことを考えながら、運命的に今の会社に入ったこと。これまでの全ての選択と決断が、私をハッピーエンドへと導いてくれるものであると信じている。その時は悔やむべきことでも、悲しい、やらかしたと思うことでも、それを経たからこそ得られる倍の幸せがある。そう思うことで、失敗に対する反省と切り替えがスムーズにできるのだ。もちろん失敗のない人生を歩むことが一番だが、そう上手くいく人生もない。何度壁にぶち当たっても、前向きに立ち上がってまた走り出す。そんな人間として、これからの人生を歩んでいきたい。

 

いつかタイムスリップに使うための平成25年の500円硬貨は、もう必要ない。

Instagramと20,000円の空気清浄機

2021年 1月。
Instagramを消した。

一見何でもないような出来事に見えるが、我々SNS世代にとっては生活に変化をも及ぼす重要なことである。
早速だが、ひとつ訂正。消したとは言ったが、新しいアカウントを作成した。そう、消したというのは大袈裟な話で、ただアカウントを変えただけである。特に自分にとって不都合なことがあるアカウントでは無かった。5年近く日記帳のように投稿してきたものは全て消え、フォロワーの数も半分以下になるという少しばかり名残惜しい気持ちもあったが、やはりずっと前から変えたい理由があった。

一つの理由としては、要らない人間関係の脈をスッパリ断ち切りたかったからというものがある。
SNS全盛の現代社会において、人と人との関係を繋ぎ止める形は大きく変わった。誰かとの繋がりが完全に切れるということが少なくなったと感じる。学校や職場が離れても、連絡を取り合う回数が減っても、SNSでフォローし合ってさえいればその関係が完全に切れることは無い。
SNSの繋がりという脈は一見か細いように見えるが、互いに今何をしているか、どんな人間関係を築いているかといった、人を知る上で重要な情報が詰まった太い脈であると私は思う。

ただ、人間関係の脈において大事なのは、決して太さではない。通っている量だ。
私にも、SNSだけで700本くらいの脈があっただろうか。私は環境が変わることが多かったので、その分人と知り合う回数も増えていた。
ただ、その中で実際に通ってきた脈は、半分もなかったように思える。ほとんどの脈は直接のコミュニケーションが無くなって以降、通うことが無かった。その中には、「知ってる人だからフォローし合う」というSNS発展社会の潮流に乗ってフォロワーになっただけ大して仲良くもない人や、様々な理由から今後その脈を残しておこうと思わない人も当然いる。そういった、ある意味"自分には関係ない人"との繋がりに、気味の悪さを覚えてしまった。
140文字や4,5枚の写真、15秒間の動画に収められた互いの近況報告を覗き合うだけの関係。私だけでなく相手も、互いにそれぞれが何をしているのか一文字も、一画素も、一秒たりとも興味がない。全て、ほんの少し画面をスクロールすれば記憶から消えていく内容だ。脈を通っているのはコミュニケーションの種でなく、無造作に押された「いいね」のハートだけ。
おそらく、こういった関係性の脈は誰しもが、少なくとも100本以上は持ち合わせているであろう。誰しもがSNSのフォロワー欄を覗くと、全くコミュニケーションを取っていない、かつ今後取る気もないような、ただSNSだけで繋がっているだけの人が沢山いるだろう。そういった関係性こそが現代社会のスタンダードであるような気もする。

しかし、私はそれを「嫌だ」と感じてしまった。この関係で「誰かと繋がっている」と思うことに違和感を覚えた。果たしてこれは本当に「繋がっている」と言えるのか。SNSでただ無関心の覗き合いを続けている関係に、意味はあるのかと。
スタンダードで言うと、意味は大いにあるのだろう。人脈の広さは自分の武器になり得るし、フォロワーが多いことで生まれる問題など、特にない。たとえ無機質な覗き合いを続けるだけの関係であっても、それによって困ることは一つもないし、立派な"繋がり"であると言える。
ただ、一見「繋がっている」ように見えるこの関係が、私には「とっくに切れてしまった脈を"SNS"という名の接着剤で、何とか繋ぎ止め
ている状態」に見えてしまうのだ。
さほど交友関係が広いわけではない自分が生意気なことを言っているかもしれないが、あまり人付き合いが得意でない分、人付き合いの多さに面倒臭さや怖さを感じてしまうことが多い。と言うのも、様々なベクトルで渦巻く思春期の人間関係に巻き込まれる中で、ややこしく入り組みすぎた人間関係への面倒臭さを感じたり、突如世界が変わってしまったかのような"裏切り"を受け、それへの恐怖心が脳裏にこびりついたり。そういった経験をごまんとしてきた影響で、自然と関係性を狭めようとしていた。そういった中で、前述の「SNSによって何とか繋ぎ止められている脈」というものは自分にとって全く意味を成しておらず、新たな問題を生み出す火種を変に増やしてしまっているだけのように見えてしまっていた。
そのため、Instagramを消すことでそういった意味のない関係を清算したいという気持ちがあった。無駄にネットワークだけを広くするのではなく、今生きている脈を通わせる方が自分にとっても楽である。アカウントを新しくしたことは、今後も通わせたい脈、自分にとって必要な脈を取捨選択するいい機会となった。

ただ、今回Instagramを消したことで完全に手放した脈は、全てが本意によるものではなかった。中には、本来こうしたくなかったような脈もたくさんあった。何故、手放すことにしたのか。否、手放すようになってしまったのか。それは紛れもなく、"自分のせい"だった。
以前は活発に、双方向に通い合っていた脈。普通に関わることができていたら、切れることもなかったであろう脈。全て自分に問題があって、切れてしまった。否、切られてしまったと言った方が正しいであろう。自分の行動、発言が人間として未熟すぎたせいである。それまで仲良くしていたのが自分の言動がきっかけで嫌われてしまったり、関わり方における選択肢を大きく間違えた結果、気まずい、あるいは避けられる関係になってしまったり。しかしこうしてとっくに切られてしまった脈なのに、SNSではその脈がギリギリ繋ぎ止められ、植物状態のようになっていた。自分が関わり方の選択肢を誤りさえしなければ、その脈を今でも通わせることができていたのではと思う度に、自分の人付き合いの下手さ、疎さ、そして自分自身の愚かさを痛感することとなっていた。

一度切られてしまった脈をまた通わせることは不可能に近い。これは私が23年と7か月で痛いほど感じてきたことだ。何よりも悔やむのは脈が切れたこと以上に、何度も同じ失敗を繰り返す自分の愚かさである。SNSを開く度、過去の自分を殺してやりたいくらいの感情に落ちてしまうことが憂鬱になっていた。自分自身への怒りや、その当時相手に不快感を抱かせたことへの自責の念。そういった過去の大失敗にいつまでも囚われず、2021年から新たに前を向かなくてはならないという気持ちを込めて、自業自得で腐らせてしまった脈を泣く泣く切るような形で、Instagramを変えたという経緯もある。脈を断ち切るのは、自分が切りたいからではなく、過去の失敗を引きずらないようにするためだ。日記帳を1冊捨てるということ、それに伴って切りたくない脈を切ることは、私にとって「"自業自得"を繰り返した自分への戒め」のようなものでもあるのだ。

あまり人と深く関わることから逃げ、心を開こうとした相手には言動を誤って避けられてしまい、結果またそれが怖くなって人との関わりから逃げてしまう。こういった悪循環に陥ってしまっている。ただ、これを生み出している元凶は間違いなく自分だ。せっかく、人との深い付き合いから逃げているような自分に対して好意的に接しようと来てくれる人がいても、自分の最悪な言動がそれを潰してしまっていた。いくら酷いバックボーンがあったとはいえ、それを言い訳にせず、きちんと、正しく様々な人と関わる必要がある。過去のトラウマを振り払えるのは、新たな成功体験である。その成功体験を生み出すべく、まずは自分の言動を何とかする必要がある。

Instagramを消したという一つの行動をきっかけに、自分の数多の失敗を振り返ることができ、ある意味心機一転というような形でもあった。そういった気持ち新たという意味も込めて、自分の言動をきちんと見直してきたい。当面の目標は、「女性に避けられない振る舞い方」になるであろうか。今までの23年間何をやってきたのかと自分を疑いたくなるが、これがまず出来ていないからこのような結果を招いてしまっているのだ。自分にとっても沢山の後悔を生み、相手方にも不快な思いをさせてきた、とてもいい失敗だとは言えないが、「失敗は成功の基」とも言うように、それをある意味の糧として、これからは新たな自分として頑張っていくしかない。

2021年から、Instagram以外にもいろいろと身の回りの物を変えた。すべては新しい自分に変わりたいという意志のもとだが、こんなことで何が変わるんだ、ということも沢山ある。例えば、毎日使うリュックを変えてみたり、部屋の配置を変えてみたり、2万円する空気清浄機を買ってみたり。こんなことで私の日常や取り巻く環境が変わるわけでもないが、それでも何かを変えてみたいという決心のようなものだ。
「行動が変われば~」という一連の格言の終点は「運命が変わる」となっている。しかし、その出発地点は「心が変われば行動が変わる」という所にある。どれだけ日々の行動を変えても、若しくはすべての行動を変えるには、心から変えていかないといけない。文字通り「心を入れ替えて」、今ある脈を必ず残し続けなければいけない。自分の所為と言うのがいつまでも引っかかるが、失った脈を悔やみ続けるのはもう止めにしたい。今頃女子アナとご飯に行けていたかもしれないが、モデルの卵とLINEのやり取りをできていたかもしれないが、それも自分の所為で切られた哀しき脈である。もうウジウジと振り返ることはせず、逆にあくまで例えだが「元アイドルとご飯に行けるように」「アカデミー賞受賞女優とLINEのやり取りができるように」なるべく、前を向いて行きたい。
ここで、前を向き、いくら心を変えたところで、顔を変えないと前述2項は一生達成できないことに気が付いた。こちらは横浜流星の顔を手にしてから、ゆっくり考えるとする。


最後に、私のInstagramアカウントを載せて、長文の締めとさせていただく。

「○.○○○○○○○○_○○」

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かつて有能だった俺たちへ

 

昔から、そこそこできる方の人間だと思って生きてきた

 

勉強も、小学生、中学生の時はそこそこ上の方。高校では野球に没頭したこともありそこまでだったが、大学でも単位を落としたことは無かった。

アルバイトでも要領を掴むのは決して早くなかったが、要領さえ掴めばすぐに何でもこなせるようになっていた。3年勤めたバイト先でも、1年目からできる新人だと言われ、2年目からは大きな仕事を多々任されるようになった。最後の方はバイトとしての業務責任者のような立場にもなった。自分でいうのも恥ずかしいが、先輩からも安心して仕事を任され、後輩からも結構頼られていた。

自尊感情が低いことでお馴染みの私も、そこには自信を持っていた。普段は全くもって大したことのない自分が、仕事場では様々な人にとって大きな存在になれるその瞬間が好きだった。日常生活で酷い目に合いボロ雑巾のようになっても、いざ仕事場に行くと"有能の鎧"を着せてもらえるその瞬間が好きだった。少し自惚れ過ぎているかもしれないが、私の「学生アルバイト編」において、プロフィールに書かれる肩書きは"有能"であったと自負している。そのまま「社会人生活編」へと繋がっていく中で自分がどんなプロフィールを手にしていけるか、期待と若干の不安が入り混じっていた。

 

そして2020年末。私の「社会人生活編」が始まってはや半年。仕事納めをした今の私のプロフィールには、"無能"の二文字が肩書きとして、しっかりと刻まれている。

 

ロクに仕事ができない。大事なことが抜けていたり、言われた内容をすぐ理解できなかったり、進め方が分からなくなって上司に頼りっぱなしになってしまったり。客に何度平謝りしたか、覚えていない。上司は怒るというアクションこそ取らないが、まあ呆れているだろう。「作業はそれなりにできるけど仕事はできない」というのが、私の現状であると感じている。

正直、こうなることは予想していなかった。難しい、大変な仕事であるということは当然理解していたが、それも"自分"ならどんどん乗り越えられると過信していた。

仕事は想像の何倍も複雑で、難しかった。上司の仕事のやり方も非常に細かい。正直、半年でモノにできるような内容ではないとも思う。しかし、それだけではない。難解な仕事内容だけでなく、もっと大きな存在が、私のプロフィールに無能という二文字を書き殴った。

それは紛れもない、"昔の自分"である。

 

私は"無能"な自分を知らなかった。ずっと"有能"な自分でいられると思っていた。丁寧に細かく覚えていく必要がある仕事に対して、「今まで通り流れで覚えていける」という慢心があった。その結果、たったの1年で都落ちした自分にショックを受ける反面、無能である自分を受け入れようとしないまま、有能だったころの幻影を追ってしまっていた。

入社して3か月ほど経った時、私は自分の出来なさにようやく気が付いた。様々な仕事への対応力が無く、内容を理解しきれていないこともしばしば。内容を理解できていないことによるミスもあった。そこまで自分の出来なさに気が付けなかったのは、自分が未だ「有能側の人間」であると思い込んでいたのが原因の一つでもある。

先ほど書いた"慢心"である。まさか自分がこうも無能だなんて、思ってもいなかった。

「今はまだ難しくて理解できないけど、どうせ"今までみたいに"分かるようになる」

「全然正しくできないけど、"自分なら"いずれ完璧にできるようになる」

無能である自分から無意識に目を逸らし、有能だった過去の栄光にすがっていた。

その慢心や驕りがただでさえ遅い自らの成長をさらに遅くし、それにすら気付かない自分は「何故なかなか出来るようにならないんだ」と首を傾げていた。「自分にできないはずがない」という勘違いはいつしか「自分の分野はかなり難しい部類」「仕事量がさほど多くないから、前のように反復で覚えることができない」といった言い訳、責任転嫁に逃げる理由になっていた。

 

気付くまで3か月。遅すぎた。同期が様々なトライ&エラーを繰り返して成長を重ねていく中、私は"有能だった自分"という幻影を追い求め、その場で足踏みを続けていた。

"かつての自分"にできていたのは、アルバイトという「ある程度決まった流れの中で取り組む作業」であった。個人の仕事は基本一人でおこない、自己完結させることができていた。誰かと関わる仕事は専ら社内の人間。その場で指示をもらう、指示を出すといった、その場で完結できる仕事しかなかった。

"今の自分"がしている仕事は、「様々な流れの中で、とんでもないイレギュラーにも対応しながら進めていく作業」である。自分だけでする仕事など殆どない。自分の仕事が誰かの仕事に直結するし、誰かの仕事が自分の仕事を左右する。流れも多種多様で、そこから起こる様々な状況に適切な対応をする必要がある。

こんな明確すぎる違いがあるにも関わらず、私は"かつての自分"と同じことをしようとしていた。決まった作業の中で、仕事ができるようになると思い込んでいた。

この半年、全く同じ仕事をしたことは殆ど無かった。作業こそ同じであっても、状況が毎度毎度で違う。何か必要なものが足りない。何らかのスケジュールが遅れている。そういったイレギュラーに対応し、適切な行動を取ることが求められる。経験値が必要なのは勿論だが、早いうちから養われるべき対応力や思考力といったものを身につけることができないという現状である。"アルバイト"などという狭い世界では考えることもない領域である。

 

そして、自分が無能であるということを完全に受け入れさせたのは、何より"昔の自分"の存在だった。

先日、バイト時代の後輩たちと1年ぶりに会った。うち一人が東京から居なくなってしまうという理由で開催したが、正直気が引けた。今の私は、彼らの前で完璧な仕事をして、彼らに頼られていた"昔の自分"とは全くの別人である。彼らに、「無能な自分」を知られたくなかった。いつまでも「有能な先輩」でいたかった。

そんな過去の栄光にすがる自分を、彼らは未だに頼ってくれた。「先輩が去年ああしてくれたおかげで、今年何も問題なくできました」「先輩がいなくなってからあれが大変になっちゃって」といった言葉の数々は、私が「かつて有能だった私」が存在することを実感させてくれた。そうして、"有能だった過去の私"の存在が自分の中で大きくなると同時に、"無能な今の私"の存在もコントラストのように浮かび上がってくる。今の自分はあの頃の自分とは全く違うと、痛感させられた。

"昔の自分"が、"今の自分"を遠くから嘲笑っている。先輩・後輩から頼られている"昔の自分"が、先輩から呆れられている"今の自分"にとっては雲の上の存在のように見えた。そこで自分はようやく、自分がいる位置を理解する。崖のギリギリで踏ん張っていたと思っていたが、実はとっくに崖下に落ちていたことに気が付いた。あの頃の自分と現在の自分の対比が、今の自分の不甲斐なさを際立たせる。

私は今更ながら、頑張らないといけないと思った。もちろん仕事だからということもあるが、それ以上に「今のままでは後輩たちに合わせる顔がない」ということが大きい。もう散々使い古した"有能の鎧"を着た姿でなく、ありのままの姿で彼らに会いたい。彼らに恥ずかしくないような姿でいたい。そう思った。そのためには、ちゃんとした"有能"にならないといけない。

彼らの前で特別カッコつけたいという訳ではない。ただ、変なプライドとかではなく、彼らにカッコ悪い姿を見せたくないという思いが強い。私のことを「先輩として憧れる」「いざとなった時に頼れる人」と言ってくれた彼らを、無能な私をさらけ出して裏切りたくない。

「自分のメンツを保ちたいだけ」と言われるだろう。何も間違っていない。その通りである。ただ、私にとってのメンツは、もうこの場所にしか残っていない。私のことを「凄い」「信頼している」と言ってくれるのは、もう彼らしかいない。この場所がなくなれば、私は名実ともに"大したことのない人間"になってしまう。ここまで堕ちた自分でも、まだ一かけの「有能になれる可能性」というものを信じたい。また以前のように、周りから頼られる人間になれるチャンスが1%でも残っているなら、そこに向かってやるしかない。そのために今は、無能だと分かっていても「かつて有能だった私」が存在していたことを忘れないよう、そのメンツだけでも守りたいのだ。

 

もう3か月もすれば、こんな未熟な私にも先輩という肩書が増える。より多くの先輩と関わる機会も増えるであろう。今のままでは、私はただの無能のままだ。もう有能だったころの幻影を引きずって目の前から目を逸らすのではなく、今の自分に向き合い、そしてかつての自分を目標にして、新しい自分を高めていかなくてはいけない。無能である自分との付き合い方。大きな壁ばかりになるが、また新たな"有能"の肩書を手にすべく、地道に努力を重ねていきたい。

 

私は、頑張らないといけない。

 

壁の向こうのスカイライン

ひとり暮らしを初めてから、地元に帰ってくるのは何度目だろうか。

今日も私は、ものの1時間の場所にある実家に帰ってきた。目的である美容院の予約時間が18時であったため、普段のように夜ご飯を実家で食べず、髪を切った後そのまま近くのファミレスに駆け込んだ。

このファミレスには思い入れがある。2015年12月。高校3年生の冬という過渡期を迎えるも、「推薦入学」というスペードの3のようなカードを手にしていた私は、周囲の同い年が勉強に勤しむ中、高校生活の清算に向けた数々のイベントや、4月からの新たな環境への期待に胸を弾ませていた。そんな私が目標としたのが、運転免許の取得だった。家から自転車で10分。駅からも近く、設備も綺麗な教習所に通うことを決めた。この時はまだ、この教習所生活が私にとって特別なものになることなど、知る由もなかった。


「免許取ったら何乗りたい??」
入校手続きのための書類を書いている際、手続きを進める教官が不意に聞いてきた。車に詳しくもない私は、ひとまず話を繋げるべく、当時レーシングゲームでよく操作していた「スカイライン」の名を挙げた。
「君ぐらいの歳の子がスカイライン乗りたいんだねぇ」と教官が白髪混じりの髪を掻きながら笑みを浮かべる隣で、"その人"は輝かんばかりの笑顔を浮かべ、私を向いていた。

"その人"は、教習所の受付をしていた。何度も教習原簿を受け取り、キャンセル待ちの有無を告げられた人。歳は20半ばといったところ。顔立ちは幼く、当時アイドルを知らない私にもドンピシャな「たぬき顔」であったことを覚えている。芸能人で言うと「重盛さと美」のようだっただろう。
その始まりは突然だった。ある日、休日で混み合う中、いつものように教習原簿を受け取り、その後の野球のための大荷物を受付で預かってもらおうとした時。

「そんな荷物でどこに行くの??」

その人が、急に私に尋ねてきた。「野球行くんです〜」「凄いね、大変だね〜」交わした会話は、たったこの程度であった。そりゃこんな大荷物を持っていたら何をするのか気になるだろうな。でも楽しそうに話しかけてくれて嬉しかったな。という感想しか持ち得ていなかったが、そこで確かに「受付の向こう側」という遠い存在であったその人を、身近に感じる大きなきっかけになった。
その人と話せるチャンスは、受付や学科終わりの教習原簿の受け取り時。後ろに誰も来なさそうなタイミングを見計らい、その人の元へ行った。話すことは毎度2,3言。1分にも満たないわずかな時間の、たわいも無い会話であったが、私は確かにその時間に大きな幸せを感じていた。


ある学科の時間。初バイト先で毎日受けていたパワハラにより心身ともに疲弊していた私は、あろう事か睡魔に襲われてしまった。当然教官には怒られ、何とか出席を認めてもらう形になった。5ミリほど反省した後、教室で教習原簿を受け渡してくれたのは、その人だった。
「寝ちゃダメでしょー?」「いやすんません…笑」そんないつも通りの会話。しかし、その日だけはもう10秒、続きがあった。

「そんなんじゃスカイライン乗れないよ〜?」

何の人違いかと思った。私はスカイラインに乗りたいなんて思ってもいなかったし、当然話した記憶もない。突然降ってきたスカイラインという単語は、どの記憶を検索しても謎のままで揺れていた。
気温1桁の侘しい土手道を帰りながら、ハッと思い出した。一度だけ、私はスカイラインの話をしたことがある。入校手続きの時だった。教官から突然投げかけられた質問を適当に返しただけの、記憶から真っ先に消えていくような会話。そんな会話を、ただ聞いていただけのその人は、明確に覚えてくれていたのであった。

私が日々の中で大きな嬉しさを感じる瞬間は、「誰かの記憶の中に、自分という存在が残っていると実感した時」である。初めて会った時は挨拶程度しか出来なかったのに、次会った時にその時のことを細かく覚えてもらっていた時。私の些細な好きなものを覚えてくれていた時。自分で言うのも恥ずかしいが私は自尊感情が低く、そんな些細なことに関しても「私なんかのことを覚えてくれていたのか」「あんなしょうもない事に興味を持ってくれていたのか」と大袈裟に解釈してしまう。少し自意識過剰にも見えるだろう。でも私は、そうでも思わないと自分という存在の価値を見出せないのだ。誰かに覚えてもらえてる。知ってもらえてる。それが私にとって、大きな喜びになるのだ。
初めて会った若干18歳の、直接会話していた訳でもないたった一瞬の発言を、明確に覚えてくれていたその人。あの時、私の中でその人は「特別な思いを持つ人」になっていた。
受付のカウンターという、低いようで大きくそびえ立つ壁の向こう側にいる人。ある意味「生きる世界が遠い人」であり、本来私などが特別な思いを持つような人ではない。ただ、そんな人が私の事を覚えているだけでなく「存在を明確に認知してくれている」ことを知り、その人を今まで以上に身近に感じてしまったのだ。今までは「違う学年のマドンナ」のように感じていたその人を、「同じクラスの片思いしている人」のように、いつしか想うようになっていた。

それ以降も、その人と話せる機会は教習所に行く度のたった数秒のみ。受付、学科における教習原簿の受け渡し時。休憩時間に教習所内でばったり遭遇した時。効果測定の合格を一言、祝ってくれた時。私はその限られた時間に、これ以上ない幸せを感じていた。
そして私の教習所生活は、4ヶ月ほどで終わりを告げた。仮免試験において、坂道発進で6回エンストして検定中止になったのもいい思い出である。卒業検定を難なくクリアし、あとは学科をクリアしてフィニッシュという時、教官から最後の手続き等の説明があった。
目の前にいるのは、もう私のスカイラインなど覚えていないであろう教官と、しっかり覚えてくれているその人。私の教習所生活は、最初も最後もこの形であった。退室する際、その人に言われた「もう帰ってきちゃダメだよ〜」という言葉は、その人なりのエールであり、その場での別れを意味する哀しきものであった。結果、免許センターでの本免学科試験に落ちてもう一度教習所に足を運ぶという恥ずかしいことになったが、私が4ヶ月もの間抱えていたその人への特別な思いは、意外とあっけなく、終わりを迎えた。

そんな淡い思い出と共に過ごした教習所生活。様々な思いを抱えながら、私は冒頭のファミレスによく行っていた。「今日はこんなこと話せたな」「あの時可愛かったな」なんてことを思いなから、一番安いメニューに手を伸ばし、キャンセル待ちをしたり、お昼休憩を潰したりしていた。店内BGMを「高嶺の花子さん」にして欲しいと、何度思ったことか。その後もこのファミレスに来る機会はあったが、必ずあの時のことを思い出した。ファミレスからも見えるその教習所を見て、その人は元気にしているのか、もう辞めてしまったのか、そういえば教習車変わってるじゃん。偶然を装って近くまで行ってみようか。そんな事が私に出来ないのは、分かりきっていた。
忘れられているのが怖いのだ。覚えてもらっていることに大きな喜びを感じる私は、同時に忘れられていた時の悲しみも非常に大きい。だから私は、昔の友人に会うのが怖い。

私は環境が変わる度にそれまでの友人との関係がどんどん無くなっていく、言わば「リセット症候群」のようなものであると自覚している。その理由も単純で、人に忘れられている恐ろしさを想像すると、飲みにもご飯にも誘いにくくなるのだ。
「俺たち2人で飯行くほど仲良かったっけ?」「ご飯行くの初めてだよね?」
それまでどれほど仲が良くても、ご飯に行く仲でも、その事実を忘れられていた時の怖さを想像すると、誘いの送信ボタンという引き金は引けなくなる。結果、今仲がいい人しか誘えず、過去の友人との繋がりがどんどん薄くなってしまうのだ。

今まで、私はずっとそうしてきた。人間関係に怯え続けてきた。見えない空気感を必要以上に恐れてきた。今後の人生で新しく"友達"に巡り会う機会は、もう限られている。こんな私の誕生日を祝ってくれる友達も、決して少なくはなかった。今までは大した意味を感じなかった5文字の言葉を、23歳になって初めて噛み締めた。私は、変わらなくてはいけない。

そんな私は今日、このファミレスに帰ってきた。この4年半で私が変わったことは、社会人という肩書きを手にしたこと。頼むメニューが少し高くなったこと。スカイラインではなくインプレッサに乗っていること。それでも、私の周りを取り巻く環境は日々変わっている。また明日からも変わり行く社会に身を投じなければいけないのか。という、毎日にワクワクしていたあの頃とは全く違った感情を胸に、私は席を立った。レジに向かう途中、ドリンクバーの前で一人の女性と目線がぶつかった。思わず引き寄せられた、と言う方が正しいかもしれない。栗色のミディアムヘアに幼めの顔。若干目を見開き、驚いたような表情で私を見てくる女性は、紛れもなく"その人"であった。
もちろん確証はなかった。最後に会ったのも4年前で、同じような顔立ちの人はこの島国に何人もいるであろう。ただ、その真ん丸な目を更に見開いた驚きのような、困惑のような表情は、私の事を知っていないと出来ない表情であると悟り、目の前にいる女性が4年前に特別な思いを寄せていた"その人"であると確信した。
あの時、私はどんな表情をしていたのだろうか。その人と同じように驚いていたか。確証のない再会に戸惑っていたか。その一瞬で淡い記憶を思い出して照れていたか。「もしかして○○くん?」と声を掛けられるまで、私の脳内では4年分、記憶の巻き戻しボタンがひたすらに長押しされていた。「○○です!久しぶりですね…」という精一杯の言葉が、ようやく言葉が渋滞して細くなっていた喉奥から現れてくれた。
「久しぶりだね〜!何年ぶり〜?」「4年ぶりですね〜…」ドリンクバーのコップを左手に持ちながら笑顔で話しかけてくれるその人。あの時、自動販売機のお茶を片手に話しかけてくれたその姿が、4年の時を経て目の前にあった。
長い歳月を感じさせない、相変わらずの幼い顔。輝かんばかりの笑顔。4年前と同じものだった。しかし、ふと目をやったコップを持つ左手には、シルバーリングが1つ。その煌々とした輝きが、私に4年前との大きな"違い"を見せつけていた。
あの時、受付の向こう側という遠い世界からその壁を超えてきてくれたその人は、令和となった今、いくら手を伸ばしても届きようのない存在となっていた。もう私とは絶対に交わることの無い、生きる世界が違う人。教習所を出たあの日に終わったはずの特別な思いは、今日で完全なる"終わり"を迎えたのだった。

ここまで散々「特別な思い」と書いてきたが、何も私はその人が"好きな人"だった訳では無い。身近な人だと感じていたとはいえ、流石に自分の身分もわきまえていたし、その人に何かを伝えようとも思っていなかった。ただ、恋を出来ているだけで良かった。片想い出来ているだけで良かった。今、私はアイドルへのガチ恋という、あの時の同じような感情を持っている。生きる世界が違うと感じる人に、恋焦がれるようなことは無い。しかし、前述したように生きる世界が違うような人が私の事を記憶の中に刻んでくれているということを知ってしまったら、手が届かないと分かっていても、特別な思いを持ってしまう。手が届かないと分かっていても、その人に恋焦がれている気持ちで十分だと感じてしまうのだ。近いようで遠い存在だと分かっているからこそ、恋焦がれていられるのだ。

今日交わしたのはたった数十秒の、4年前と変わらないような会話。変わったのは、その会話に以前のような多幸感が無かったこと。その人はもう、受付なんかよりも更に高い壁の向こう側にいる人であること。しかし、決して虚しさを感じてはいなかった。むしろ、あの4ヶ月にようやく裏表紙が付き、思い出として完結したような清々しさを感じることになった。今日、綺麗に清算されたこの思い出は、私にとって大切なものとして心に残り続けるだろう。


「幸せになってください」

少し早い七夕の願い事を心の中で叫び、4年前より400円ほど高いお会計を済ませた。私は明日からも、激しく変わり行く社会に身を投じる。地元の駅までの足取りは、「変わっていかなくては」という決意表明のような、覚悟のような、力強いものであった。

カウントダウン 82日

学生生活が終わるまで、とうとう残り3ヶ月を切った。この残り期間のことを「時限爆弾」と言う友達がいた。4月1日に爆発することが確定しており、そこまでの残り日数も目に見えて分かっている。私はこの表現に凄く納得したが、少し違う思いもあった。「爆発」という言葉で4月1日を例えているということは、その日に絶望感や悲壮感を感じているということだ。確かに一般的に見ると、学生生活の終わり、社会人のスタートという日は決して明るい日ではないかもしれない。しかし、私にとっての4月1日は決して暗いだけのものでは無い。学生という肩書きが外れ、住む場所も変わるという私にとって最大の変化。「新生活」という一見何でもない3文字が、確かに私をワクワクした気持ちに駆り立てているのだ。社会人になることは単に社会の歯車になるだけでなく、「学生」のような決まったものと違い「社会人」という漠然としたステータスを背負い、そこから自分のステータスをどれだけ進化させていくことができるか。という冒険のような、長旅のような、そんなものであると考えている。もちろんそれは行き先も未来も見えない真っ暗な世界であるため、そこに対しての恐怖心もある。ただ、その日が新たな自分を見つけ出すことができる分岐点になると思うと、その暗闇に対しても小学生の頃におこなった洞窟探検のようなワクワク感を覚えるのだ。だから私はこの残り期間を、新しい自分になる意味で「カウントダウン」という言葉で形容したい。そして、このタイミングで投げ込まれがちなのが「今のうちにいろいろやっておけ」という声である。社会人になったらそんな遊べる時間はない。なったあとに後悔しても遅いから、今のうちにやれる事をやっておけ。そんな声を多々聞いた私のスケジュール帳のカレンダーは、黒より白が目立つ。その沢山汚してくれと言わんばかりの空白を見る度、私を襲うのは何ともいえない心寂しさである。
別に予定を入れる上で不都合なことがある訳では無い。資金的な余裕はあり、時間的な余裕もスケジュール帳の空白が物語っている。不都合と言えば、特別何かを一緒にしたい友達が少ないことぐらいか。ただ、今の私に一番無いのはそういった物量的なものではなく、「今のこの時間でしかできない、やりたいこと」なのである。時間があるうちに色々やっておけと言われるものの、だからといって大してやりたくもないことにお金を使い、無理に時間を消化する必要はあるのだろうか。今私が与えられている"時間"には期限がある。タイトル通り、あと82日しかない。しかし、82日が過ぎた後私にはまた新たな"時間"が与えられる。それは今より遥かに少ないものであることに違いないが、決して0ではない。そして私が今持つ資金には、使用期限がない。使わなかった分は社会人という次のステージに持ち越せばいい。人生ゲームのように、あがりの度リセットされる訳では無いのだ。私は今、バイクが1台買えるくらいの貯金を抱えているが、派手に使う気は一切ない。家を出る時、両親宛に感謝料として10万円置いていこうという作戦を計画しているくらいだ。SNSを開くと様々な友人が卒業旅行の足跡を残しており、インスタグラムはさながら世界一周旅行のガイドブックのようだ。そんな彼等は寿命の如く与えられた自由な時間の存在を明確に認知し、自分のやりたいことに対して的確に予算を組み分け、有終の美を飾る準備が出来ている。「やりたくなったら社会人になってからやればいい」という無責任なビジョンを、社会人の自分に丸投げしようとしている私とは大違いだ。
ただ、社会人になってから思う「あの時これをしておけば良かった」というものは、今の私がやりたいことではないと考えている。現に、今やりたいことはさほど多くないし、どうしてもやりたいことはあと3ヶ月で消化するつもりだ。これは甘い考えかもしれないが、「これをしておけばよかった」と思っても、社会人の限られた時間でやってしまえばいいのでは無いか。私はこれまでの学生生活でも、限られた時間や環境、手段の中で自分のやりたいことを達成してきた経験がある。時間がなければ朝6時から国道を南に走ったし、手段が無ければ免許を持っている原付で三重まで走ったこともある。そういった経験のある私だからこそ、ある程度の制約が課されても何かしら手段を見つけて実行に移せる自信がある。不明瞭な未来の後悔を防ぐためにわざわざ何かをするというより、今は自分がやりたいことをしたい。それが私の考えである。ということで、私が卒業するまでにやりたいことを、ここに書き認めることにする。


旅行
先ほど散々「やりたいことは無い」と書いたが、やはり一度旅行には行きたいし、計画もしっかり立てている。海外のある都市に久々に行くことを検討したが、そこは社会人になってからも行けそうな場所である。社会人になると逆に国内に行かなくなる。という誰が言い出したかも分からない迷信を受け、学生生活の最後ということもあり、私の様々な思いが眠る都市に訪問することにした。一つは広島のある都市。今まで3度訪れており、毎回違った悩みや思いを抱えてその地を踏んだ。今でもその風景を思い返せば当時の感情が脳裏に蘇るし、未だ同じ悩みを抱えていることに苦しくもなる。そんな様々な思いを精算するという意味でも、学生最後のタイミングで足を踏み入れたいと感じた。そしてもう一つは長崎。ここに関しては、特に抱える思いがない。ただ、昨年初めて訪れた際、事故に遭って足を引きずりながら長崎の街を歩いたという何とも悲しい思い出があるので、もう一度ちゃんと訪れたいという思いはある。現地でやりたいことは無い。そもそも、長崎というのは彼女と行くのが相場なはず。金沢と長崎。彼女が出来たら、この2都市は必ず抑えたいと思う。
そんなことを書いている最中、日向坂の広島公演に外れてしまった。まずい。広島でライブを見て長崎に行く予定がチャラになった。アイドルを目的にするという下心を持ってしまうとこうなるのであろうか。とにかく、どうしよう。


占い
本当に凄い占いは、その人の心を見透かすと聞く。私自身オカルトじみたものには非常に興味があり、占い系の怖い話も好んで読む。私が占いに望むことは、「自分の心を読んでもらう」である。何かを当てて欲しいとは特に思わない。私はここ最近ずっと、自分が本当は何をしたいのか、どうしていけばいいのか、どういう人間なのかといったことが理解出来ず、自分に対して疑心暗鬼になってしまっている。もし占いによって本当の自分を知ることができ、今後の指針を手にすることが出来たらそれ以上ない。自分はこういう人間であるということを、占い師という肩書きによってコーティングされ、説得力を増した言葉で突き付けられたい。あ、ついでに「どうやったら彼女が出来るのか」も聞いてみたいと思う。あくまでついでに。


髪を染める
生まれてこの方、髪を染めたことがない。さほど興味なかったということもあるが、一番の理由は地毛の色が好きだからだ。元々遺伝で地毛が茶色く、今でこそ坊主にした影響で少し黒っぽいが中学生までは真っ茶色であった。この色を維持したいという理由で髪を染めてこなかったが、一度くらい違った髪色にしてみたいという欲が出てきた。ただし染めるのはやはり抵抗があるので、カラーワックスを使ってみたい。色は一択。シルバー。


ゴルフ
高校生の時、選択授業でゴルフがあった。野球で左打ちである私は、将来のことなど何も考えずその時楽しめたらいいという感覚でゴルフを左打ちで練習していた。先生には「どうせ右でやるんだから右でやるべき」と何度も念を押されたが、私は1年間左打ちを極めた。今ではそんな自分を叱責したくなる。一度だけ、父親と打ちっぱなしに行った。父親のクラブは当然右打ち。右打ちではボールが真っ直ぐ飛ばない。当たり前である。これではとても付き合いのゴルフなど行けたものでは無い。何故将来のことを考えて右で練習しなかったのか。これから始めるにしても、0からのスタートだ。将来何があっても困らないよう、これから再び取り組むことを決心した。


社会人になってからも生きる脈を作る
最近ふと、自分の結婚式を想像する。なぜ彼女すらいない自分が結婚出来る前提なのかはよく分からない。ただ自分の結婚式を頭に浮かべた時、参列してくれる友達の顔もスピーチをしてくれる友達の顔も、霧がかったようにぼやけている。つまり、私は自分の結婚式に誰を呼べるのか分からないのだ。過去の知人の中で今もまだ行き続けている脈は、高校の野球部くらいかもしれない。共に受験を乗り越えた仲間。かつて共に旅行した仲間、毎月飲みに行っていた同級生、過酷な環境の中で支え合ってきた戦友。長い学生生活で築いた、いくつもの素晴らしい脈。今は暫く放置したせいで埃が積もり、その流れは絶えてしまっているものの、また久々に連絡することで再び血を通わせたいと思う。
前を向きたくないと思った時に過去を振り返る。その過去を引き出すカギになってくれるのは、紛れもなくその過去を共に過ごした仲間である。当時のような勢いで血を通わせるには、時間がかかるかもしれない。ただ、私が知るかつての仲間達は埃を払って元の脈を取り戻すだけでなく、更に太く、強い脈にすることが出来る最高の面々である。彼等との再会が、今から楽しみになってきた。

学生生活の総決算となる残り82日。少しでも将来の自分に残せるレガシーを生み出すべく、できるだけ多くの荷物を持って4月1日の自分にバトンパスができるようにしたい。残りの期間で手にしたもの、取り戻したものは光となり、4月1日から延々と続く真っ暗な世界を照らし、私に新たな道を示してくれるはずだ。その光はやがて武器にもなり、目の前に現れた壁を壊すことができるかもしれない。全ては未来の自分のため。この「特に何もしなさそうな3ヶ月」も、いつか道に迷う自分の大きな助けになると、私は信じている。