Instagramと20,000円の空気清浄機

2021年 1月。
Instagramを消した。

一見何でもないような出来事に見えるが、我々SNS世代にとっては生活に変化をも及ぼす重要なことである。
早速だが、ひとつ訂正。消したとは言ったが、新しいアカウントを作成した。そう、消したというのは大袈裟な話で、ただアカウントを変えただけである。特に自分にとって不都合なことがあるアカウントでは無かった。5年近く日記帳のように投稿してきたものは全て消え、フォロワーの数も半分以下になるという少しばかり名残惜しい気持ちもあったが、やはりずっと前から変えたい理由があった。

一つの理由としては、要らない人間関係の脈をスッパリ断ち切りたかったからというものがある。
SNS全盛の現代社会において、人と人との関係を繋ぎ止める形は大きく変わった。誰かとの繋がりが完全に切れるということが少なくなったと感じる。学校や職場が離れても、連絡を取り合う回数が減っても、SNSでフォローし合ってさえいればその関係が完全に切れることは無い。
SNSの繋がりという脈は一見か細いように見えるが、互いに今何をしているか、どんな人間関係を築いているかといった、人を知る上で重要な情報が詰まった太い脈であると私は思う。

ただ、人間関係の脈において大事なのは、決して太さではない。通っている量だ。
私にも、SNSだけで700本くらいの脈があっただろうか。私は環境が変わることが多かったので、その分人と知り合う回数も増えていた。
ただ、その中で実際に通ってきた脈は、半分もなかったように思える。ほとんどの脈は直接のコミュニケーションが無くなって以降、通うことが無かった。その中には、「知ってる人だからフォローし合う」というSNS発展社会の潮流に乗ってフォロワーになっただけ大して仲良くもない人や、様々な理由から今後その脈を残しておこうと思わない人も当然いる。そういった、ある意味"自分には関係ない人"との繋がりに、気味の悪さを覚えてしまった。
140文字や4,5枚の写真、15秒間の動画に収められた互いの近況報告を覗き合うだけの関係。私だけでなく相手も、互いにそれぞれが何をしているのか一文字も、一画素も、一秒たりとも興味がない。全て、ほんの少し画面をスクロールすれば記憶から消えていく内容だ。脈を通っているのはコミュニケーションの種でなく、無造作に押された「いいね」のハートだけ。
おそらく、こういった関係性の脈は誰しもが、少なくとも100本以上は持ち合わせているであろう。誰しもがSNSのフォロワー欄を覗くと、全くコミュニケーションを取っていない、かつ今後取る気もないような、ただSNSだけで繋がっているだけの人が沢山いるだろう。そういった関係性こそが現代社会のスタンダードであるような気もする。

しかし、私はそれを「嫌だ」と感じてしまった。この関係で「誰かと繋がっている」と思うことに違和感を覚えた。果たしてこれは本当に「繋がっている」と言えるのか。SNSでただ無関心の覗き合いを続けている関係に、意味はあるのかと。
スタンダードで言うと、意味は大いにあるのだろう。人脈の広さは自分の武器になり得るし、フォロワーが多いことで生まれる問題など、特にない。たとえ無機質な覗き合いを続けるだけの関係であっても、それによって困ることは一つもないし、立派な"繋がり"であると言える。
ただ、一見「繋がっている」ように見えるこの関係が、私には「とっくに切れてしまった脈を"SNS"という名の接着剤で、何とか繋ぎ止め
ている状態」に見えてしまうのだ。
さほど交友関係が広いわけではない自分が生意気なことを言っているかもしれないが、あまり人付き合いが得意でない分、人付き合いの多さに面倒臭さや怖さを感じてしまうことが多い。と言うのも、様々なベクトルで渦巻く思春期の人間関係に巻き込まれる中で、ややこしく入り組みすぎた人間関係への面倒臭さを感じたり、突如世界が変わってしまったかのような"裏切り"を受け、それへの恐怖心が脳裏にこびりついたり。そういった経験をごまんとしてきた影響で、自然と関係性を狭めようとしていた。そういった中で、前述の「SNSによって何とか繋ぎ止められている脈」というものは自分にとって全く意味を成しておらず、新たな問題を生み出す火種を変に増やしてしまっているだけのように見えてしまっていた。
そのため、Instagramを消すことでそういった意味のない関係を清算したいという気持ちがあった。無駄にネットワークだけを広くするのではなく、今生きている脈を通わせる方が自分にとっても楽である。アカウントを新しくしたことは、今後も通わせたい脈、自分にとって必要な脈を取捨選択するいい機会となった。

ただ、今回Instagramを消したことで完全に手放した脈は、全てが本意によるものではなかった。中には、本来こうしたくなかったような脈もたくさんあった。何故、手放すことにしたのか。否、手放すようになってしまったのか。それは紛れもなく、"自分のせい"だった。
以前は活発に、双方向に通い合っていた脈。普通に関わることができていたら、切れることもなかったであろう脈。全て自分に問題があって、切れてしまった。否、切られてしまったと言った方が正しいであろう。自分の行動、発言が人間として未熟すぎたせいである。それまで仲良くしていたのが自分の言動がきっかけで嫌われてしまったり、関わり方における選択肢を大きく間違えた結果、気まずい、あるいは避けられる関係になってしまったり。しかしこうしてとっくに切られてしまった脈なのに、SNSではその脈がギリギリ繋ぎ止められ、植物状態のようになっていた。自分が関わり方の選択肢を誤りさえしなければ、その脈を今でも通わせることができていたのではと思う度に、自分の人付き合いの下手さ、疎さ、そして自分自身の愚かさを痛感することとなっていた。

一度切られてしまった脈をまた通わせることは不可能に近い。これは私が23年と7か月で痛いほど感じてきたことだ。何よりも悔やむのは脈が切れたこと以上に、何度も同じ失敗を繰り返す自分の愚かさである。SNSを開く度、過去の自分を殺してやりたいくらいの感情に落ちてしまうことが憂鬱になっていた。自分自身への怒りや、その当時相手に不快感を抱かせたことへの自責の念。そういった過去の大失敗にいつまでも囚われず、2021年から新たに前を向かなくてはならないという気持ちを込めて、自業自得で腐らせてしまった脈を泣く泣く切るような形で、Instagramを変えたという経緯もある。脈を断ち切るのは、自分が切りたいからではなく、過去の失敗を引きずらないようにするためだ。日記帳を1冊捨てるということ、それに伴って切りたくない脈を切ることは、私にとって「"自業自得"を繰り返した自分への戒め」のようなものでもあるのだ。

あまり人と深く関わることから逃げ、心を開こうとした相手には言動を誤って避けられてしまい、結果またそれが怖くなって人との関わりから逃げてしまう。こういった悪循環に陥ってしまっている。ただ、これを生み出している元凶は間違いなく自分だ。せっかく、人との深い付き合いから逃げているような自分に対して好意的に接しようと来てくれる人がいても、自分の最悪な言動がそれを潰してしまっていた。いくら酷いバックボーンがあったとはいえ、それを言い訳にせず、きちんと、正しく様々な人と関わる必要がある。過去のトラウマを振り払えるのは、新たな成功体験である。その成功体験を生み出すべく、まずは自分の言動を何とかする必要がある。

Instagramを消したという一つの行動をきっかけに、自分の数多の失敗を振り返ることができ、ある意味心機一転というような形でもあった。そういった気持ち新たという意味も込めて、自分の言動をきちんと見直してきたい。当面の目標は、「女性に避けられない振る舞い方」になるであろうか。今までの23年間何をやってきたのかと自分を疑いたくなるが、これがまず出来ていないからこのような結果を招いてしまっているのだ。自分にとっても沢山の後悔を生み、相手方にも不快な思いをさせてきた、とてもいい失敗だとは言えないが、「失敗は成功の基」とも言うように、それをある意味の糧として、これからは新たな自分として頑張っていくしかない。

2021年から、Instagram以外にもいろいろと身の回りの物を変えた。すべては新しい自分に変わりたいという意志のもとだが、こんなことで何が変わるんだ、ということも沢山ある。例えば、毎日使うリュックを変えてみたり、部屋の配置を変えてみたり、2万円する空気清浄機を買ってみたり。こんなことで私の日常や取り巻く環境が変わるわけでもないが、それでも何かを変えてみたいという決心のようなものだ。
「行動が変われば~」という一連の格言の終点は「運命が変わる」となっている。しかし、その出発地点は「心が変われば行動が変わる」という所にある。どれだけ日々の行動を変えても、若しくはすべての行動を変えるには、心から変えていかないといけない。文字通り「心を入れ替えて」、今ある脈を必ず残し続けなければいけない。自分の所為と言うのがいつまでも引っかかるが、失った脈を悔やみ続けるのはもう止めにしたい。今頃女子アナとご飯に行けていたかもしれないが、モデルの卵とLINEのやり取りをできていたかもしれないが、それも自分の所為で切られた哀しき脈である。もうウジウジと振り返ることはせず、逆にあくまで例えだが「元アイドルとご飯に行けるように」「アカデミー賞受賞女優とLINEのやり取りができるように」なるべく、前を向いて行きたい。
ここで、前を向き、いくら心を変えたところで、顔を変えないと前述2項は一生達成できないことに気が付いた。こちらは横浜流星の顔を手にしてから、ゆっくり考えるとする。


最後に、私のInstagramアカウントを載せて、長文の締めとさせていただく。

「○.○○○○○○○○_○○」

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