平成25年の500円硬貨

 

よく行く取引先で商談中に出されるコーヒーがマズすぎる。

 

味が、というよりは、臭いが受け付けない。私の絶対にNGな食べ物の1つである、納豆の臭いがするのだ。マスク越しに鼻を刺してくるその臭いを嗅ぐ度、自分がコロナウイルスによる嗅覚障害を患っていないことを知ることができる。

納豆を遠ざけ始めたのは、物心がついた頃からだった。それからというものの、私は納豆を常に、意図的に避け続けてきた。この23年間、私の人生における選択肢に「納豆」の2文字は無かった。

 

もし納豆を食べられたら、私の人生は変わっていたのだろうか。この「もし」の答えは、間違いなくNOであろう。納豆を食べられることで入る学校や会社が変わることは無いし、出会う人が変わることなどあり得ない。人生にもたらす影響など、食事シーンの1コマのみである。

かまいたちの好きな漫才で、M-1グランプリでも披露した「タイムマシンがあったら過去に戻ってポイントカードを作る」というものがある。ポイントカードを作るように過去を改変したところで、現在に及ぼされる大した影響は無い。言わば、人生においてある意味"どうでもいい選択"である。同様に、私の「嫌いだから何としても納豆を食べません」ということも、ある意味"どうでもいい決断"である。

ただ、かく人生における選択肢は、こういったどうでもいいものばかりではない。時には生活を左右する、人生を左右する選択や決断を迫られることもある。「選択と決断」は、その時その時で大事さや難しさが大きく違う、天邪鬼なものだ。

 

この「選択と決断」という言葉に、私は昔から特別な興味をそそられる。

誰しもが何度も目にし、耳にし、これが人生の中でどれほど大事か、言われずとも分かっている言葉だ。人生というものは、この繰り返しと積み重ねによって構築されている。どんな生き方をしている人でも、必ずこの2つの行動に頭を悩ませる瞬間がある。

この動作は日々の習慣といったものよりも、もっと密接に我々の生活に紐づいている。もはや当たり前すぎて、これをいちいち気にしている人などあまりいないであろう。

ただ、私は昔からこの「選択と決断」というものに惹かれてしまう。自らの「選択と決断」がどうであるかといったことを、前々からよく考えるようになっていた。先日実家で久々に見返した、中学校の卒業文集に私が書いたテーマも、この「選択と決断」であった。

 

私はよく、後悔をする。行く場所、入る集団といった大事な選択肢を間違えたと気付いた時。自分の行動が原因で人間関係が崩れてしまった時。なんでこれ買ったんやろ、と思った時。あの店に行っておけばよかったと思った時。そして、あの時こうしておけばよかったと思った時。

誰でも経験する後悔であろう。日常に何個も、当たり前のように潜むモノから、自分の生活をも変え得る大事なモノまで。そういった後悔の後、決まって考えるのが「では何が正解だったのか」ということだ。

 

2つの選択肢を外した場合、その時の正解は「選ばなかった一方」ということになる。しかし、かく人生において選択肢がたったの2つしかないという局面は、限りなく少ない。と言うのも、その時は2つだけに思えても、後々振り返ると実は何個も選択肢があったことに気付くといったことである。

例えば、「マクドナルドでビックマックを食べておなかを壊した」とする。ちなみに実話だが、その後私はバイトで大事な業務があり、ここでおなかを壊したことが仕事に響き、後悔することとなった。その時は、「マクドナルドでなく隣の松屋に行けばよかった」という2択目を正解だと考えたが、よくよく考えると「ビックマックではない他のメニューを食べる」という3択目以降もそこには存在したのだ。

そして、この「選択と決断」というものの難しい所が、「この2択目以降が正解だったかどうか分からない」ということである。

 

この場合、私にとっての正解は「松屋に行く」という2択目か、「別のメニューを食べる」という3択目、そして無限に考えられる4択目以降である。

しかし、もしかしたら2択目、3択目を選んでも、同じようにおなかを壊していた可能性があるのだ。「松屋でもない別の店に行く」という4択目を選んだら、行きしなで交通事故に遭っていた可能性だってある。このように、「もし~をしていたら」という無数の"If"のどれが最適解だったかどうか分からないというのが、「選択と決断」という、普段何も考えずにこなしている行動の難しさなのだ。

親戚から聞いた面白い話がある。ある大学生が通学途中、最寄り駅で突然見知らぬお婆さんにしつこく話しかけられたそうだ。彼女は急いでおり、最初は無視していたが「行かないで」と強く腕を引かれたことに妙な胸騒ぎを覚え、思わず立ち止まってしまった。するとそのお婆さんは「行かないで」と腕を強く掴みながら言うだけで、特に何も無さそうだった。結局そのまま急いで立ち去ったが、いつも乗る電車を逃してしまうこととなった。別の路線で大学に向かったものの、遅刻。まだ新学期で大事な授業である上に厳しい先生だったため、彼女は遅刻を激しく叱責されてしまった。その時、彼女は「あのお婆さんを無視して電車に乗ればよかった」と後悔したらしい。

しかし、後で聞くと彼女が乗る予定だった電車は、彼女が駅でお婆さんに声を掛けられてわずか10分後、平成最大級の脱線事故に巻き込まれてしまっていたのだ。かの有名な、「JR福知山線脱線事故」である。前方車両に乗ることが多かった彼女は、もしいつも通りにその電車に乗っていたら、果たしてどうなっていたか分からない。

これが、"無数のIf"というものの奥深さである。「遅刻して怒られる」ということは一般的に「不正解の選択」であるが、この場合は2択目が「お婆さんを無視して電車に乗る」であった。この2択目が事故に巻き込まれてしまうという結末だったことを考えると、この1択目は不正解どころか「助けられたという大正解」だったと考えられる。「もし電車に予定通り乗っていたら、事故に巻き込まれていた」「もし寝坊して電車に乗れなかったら、事故に巻き込まれなかった」といった"無数のIf"というものは、考え出したらキリがない。そこが奥深いのである。

私はかれこれ17年ほど野球をやっている。「野球を始める」という選択をした時のことなど、一切覚えていないが、途中で「野球を続けるか否か」の選択を迫られたことは何度もあった。高校野球を始める前。高校野球を引退した後。社会人になった後。その度、悩みながらも「続ける」という選択を私はしてきた。今は楽しくやれているので、この選択は「正解だった」と思えるが、これが20年後、30年後にどうなっているかは分からない。もしかしたら、2年後に野球で大怪我をするかもしれない。10年後、今痛めている右肩が爆発し、一生右腕が思うように使えない体になってしまうかもしれない。そうなった時、今は正解だと思っている「野球を続ける」という選択が、不正解だったと思ってしまうであろう。

 

そうした中での私の結論は、「全ての"選択と決断"の正解不正解は、死んでからじゃないと分からない」ということである。

 

人生に後悔はつきものである。日々様々なことを後悔し、その度に過去を振り返る。しかし、私はいつからか「こうしておけばよかった」という考えを無くすようになっていた。と言うのも、「こうしておけば」の後に待つ未来は想像こそできても、断定はしようがないということに気付いたからである。最適解であるように思えるその選択肢も、先述のように現在よりも悪い未来が待ち受けているかもしれないからだ。

先日最終回を終えた「知ってるワイフ」というドラマが、まさにこのような内容であった。主人公がずっと後悔している過去の選択を、タイムスリップによってやり直すことができる。タイムスリップに必要なのは、戻りたい年の書かれた500円硬貨1枚。しかし、過去の選択を変えたことで主人公にとって理想の現在を生み出したはずが、その現在は理想の相手との離婚、仕事をクビになるといった形で、改変する前の現在よりも更に悪いものになってしまったという話である。

私が後悔する過去の選択も、もしかするとこのように今よりも悪い結果を生んでいたかもしれない。私が理想だと思っている"If"は、今を最悪な状況へと導く引き金になり得ていたかもしれない。

それならいっそ、間違った選択をしてしまっても「それによって導かれるルートがいずれ私にとっての最適解になる」と信じて前を向いた方が、過去を引きずらない分自分にとっても楽である。

 

もし私に、白蘭のようにパラレルワールドを覗ける力があるならば、もちろん考え得る様々な"If"の先を見てみたい。野球でなく、父の当初の望み通りにアメフトをやっていた現在。父親の転勤について行くことを全力で拒み、思春期をずっと地元で過ごした現在。小学生からの夢を必死に追いかけ、その仕事に就くことができた現在。それぞれ、今とは出会う人も大きく異なり、取り巻く環境も変わり、自らの人間性すらも今とは異なっている可能性がある。一体、どの人生が自分にとって一番幸せだったのか。そんなことは「神のみぞ知る」である。

 

だからこそ、人生における大きな決断においては"思い切り"というものを大切にしたいと思うようになった。

私は最近、最近車を購入した。この選択は一見何でもない選択に見えるが、私の5年後のお財布事情やこれからの行動範囲をも左右する重要な決断であった。いろいろと悩むところはあったが、最後は「この選択が自分の人生をよくしてくれる」という自信を胸に、決断するにあたった。その通りになる保証は一切なく、リスクも高い決断であったが、何事も良い結果というものは楽をして得られるものではない。時にはリスクを冒して、良い結果を生み出すためのきっかけ作りをすることも必要である。今回の車を購入するという決断は、すぐに良い結果を生み出すきっかけになるとは考え難いが、いつか私の重要な選択肢においてこれが大きなきっかけとなり、良い結果へと結びつけるカギになってくれると信じている。

 

選択肢が多いほうが、人生は楽しい。選択肢の数だけ、選ばなかった"If"のその先を想像できる。その想像のIfの先には様々な自分がいて、様々な人生を歩んでいる。大切なのは、そのIfの先にいる自分を羨むことではなく、その想像の自分に現実の自分をどう近付けていくかである。

誰しもが、理想の自分になるチャンスをいくつも持っている。そのために必要なのは過去の選択を悔やみ続けて「なれるはずだった理想という名の幻影」を追うことではなく、これから自分が何をできるか考え、理想の自分というものの可能性を探ることである。

 

大変な思い、痛みを繰り返しながら17年も野球を続けてきたこと。数多の選択肢があった中で、あのバイト先を選んだこと。様々な出会い、別れ、自滅を繰り返しながら、結果として今の人間関係が形成されたこと。就活でいろいろなことを考えながら、運命的に今の会社に入ったこと。これまでの全ての選択と決断が、私をハッピーエンドへと導いてくれるものであると信じている。その時は悔やむべきことでも、悲しい、やらかしたと思うことでも、それを経たからこそ得られる倍の幸せがある。そう思うことで、失敗に対する反省と切り替えがスムーズにできるのだ。もちろん失敗のない人生を歩むことが一番だが、そう上手くいく人生もない。何度壁にぶち当たっても、前向きに立ち上がってまた走り出す。そんな人間として、これからの人生を歩んでいきたい。

 

いつかタイムスリップに使うための平成25年の500円硬貨は、もう必要ない。